礼拝説教


2020/06/21

「キリストにとどまる」

ヨハネの手紙一2:18〜27
伝道師 上田充香子

◇会堂に参集しての礼拝が、来週から少しずつ始まろうとしている。本来ならば一同に教会に集まって礼拝をおささげしたいところであるが、人数を制限しなければならないことは悲しいことである。しかし、皆が安心して教会に集えるよう今は祈り、備える時である。そのような時、私たちは注意しなければならない。なぜなら、私たちにはいつも弱さがあり、そこに付け込んで神様の元へ帰る道を惑わす影が忍び寄るからである。

◇ヨハネの手紙一では、教会を疑いや混乱へと導く声を発するのは人間であった。「偽り者」や「反キリスト」と呼ばれる者が教会の中から多く現れたのである。反キリストとはイエスはキリストではない、とイエス様を信じない者、またキリストの代わりに自分自身がキリストになる、と教会から出て行った者のことである。教会の中にいた者たちの動揺は大きかったことだろう。

◇だからこそ、この手紙の著者はこの箇所の直前でも、この箇所でも、父なる神について、子なるキリストについて語り、「御子の内にとどまりなさい。」(27節)と語り続けます。主イエスのぶどうの木につながる枝のように、私たちもキリストから必要な栄養分をいただき、風が吹いても嵐が来ても、幹にしっかりとつながる枝として、キリストにつながることで、父なる神の内にとどまり、キリストにとどまるのである。

◇惑わすもの、救うものと分別することの出来る術はキリストから与えられる真理によって、注がれる油によって教えられている。油は「洗礼」「聖霊」と言い換えることが出来る。主イエスが与えてくださるこの恵みの言葉に集中して耳を傾ける必要があるのである。「誰からも教えを受ける必要がありません。」(27節)という言葉は、主イエスの教えに耳を傾けるということであり、誰に対しても耳を閉ざす、ということではない。ぶどうの木につながる枝枝と共に聴くのである。キリストの言葉は人間を通して語られることもある。私たちは終末を待ち望みつつ、キリストの体である教会に一堂に集ってキリストの声に耳を傾けることが出来るように祈り備えたい。

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