礼拝説教


2020/05/17

「しかし今や、キリストは復活された」

コリントの信徒への手紙一15:12〜20
協力牧師 中野 実


◇新型コロナウィルスの影響下で体の大切さを痛切に感じる。私たちは自分自身の体の他に、家族、学校や職場、社会、そして世界といろいろな体の中の一部として歩んでいる。その体を私たちがどう形成し、保つのか、どのように健やかな社会と世界という体を形成していけるのであろうか。とりわけ、体の一員として責任を担いつつ、キリストの体としての教会をどう形成していったらよいのか。

◇私たちはインターネットによる礼拝を通してもイエスキリストの体に属しているが、実際に顔を合わせないと一つの体を形作るという実感は乏しく、これは厳しい試練である。イースターの礼拝も教会で守ることは出来ないという厳しい状況を経験したが、この時こそ主イエス・キリストが十字架の苦しみとどん底の死を経験され、しかも死に勝利し復活して下さったことを思い起こす機会が与えられたことに感謝したい。この時期、様々な体が危機に瀕しているからこそ「体のよみがえり」の信仰は今大切なのである。

◇私達自身の体、属している様々な体、いずれも永遠に続くものではない。すべてはやがて朽ち果てる。それは空しいことであろうか。聖書は語る、決してそうではないと。私たちを創られた救い主なる神が、ご自分が創られたものを見捨てることはなさらない。15章20節にあるように、キリストの復活は私たちが経験するであろうことをすでに成し遂げて下さっている。朽ちるものが朽ちないものへと変えられていく神の新しい創造の御業はすでに私たちの中で始まっている。

◇このコロナウィルスの問題が終息したときどのような世界を形作って行くか、私たちの視点ははっきりしている。朽ち果てそうな小さな「私」という存在を神様は覚えていて下さって、イエス様の十字架と復活に示されている神様の御心により支えられ、日々を歩むことである。パウロが主にあって無駄なことはないと言ったように、私たちの体、教会という体の苦しみ、悲しみ、弱さは主にあっては無駄とならない。この言葉を心にとめ、日常の事柄を担いつつ神の前に誠実に歩む生活を続けていきたい。



(C) Asagaya Church, United Church of Christ in Japan, asagaya-church.com