礼拝説教


2020/04/26

「人のわざか、神のみわざか」

使徒言行録5:33〜42
牧師 古屋治雄


◇ユダヤ社会の指導者たちは教会の運動を、社会を揺るがす問題ととらえた。イエス様を死へと追いやったのと同じ力が使徒たちに及んでいる(33節)。しかしそのただ中に新しいことが起こっている。中心的な指導者ガマリエルは、ユダヤ社会の伝統を大切に守り受け継いでいた。彼は、過去に起きた運動と、今ここに起きている使徒たちの運動を比較して考える。過去に起きた運動は一時的で、消え去るものでしかなかった。一時的か永続するかは神様が明らかにされる。「ほうっておくがよい」と同僚たちを説得する。そして驚くべきことに他の指導者たちはそれに従うのである。

◇これはガマリエルの経験や学識によるのではない。使徒たちの言動を知ってこう言わざるを得なくなったのである。彼は、使徒たちが伝える、イエス様の復活の福音が持つ力に動かされ、使徒たちの働きの中に、人間のわざではない何かが働いていることに気づかされたのである。ここに福音の力がある。

◇私たちは様々なものを守ろうと固執する。しかし福音の力は私たちの守りを乗り越え、それを考え直すように私たちに迫る。その力は方向転換させる力である。エマオへ向かう二人の弟子(ルカ24:13以下)を思い起こそう。十字架の後、失望し、エルサレムから逃げるようにエマオに向かっていた二人は、復活の主に出会って方向転換し、再び都に向かったのである。

◇私たちに与えられている信仰は、何があろうと貫徹する意思や決断ではない。全く逆である。キリスト賛歌(フィリ2:6以下)に証しされているようにイエス様は自分を無にしてへりくだって従順であられたのである。ガマリエルは今や固執から解放され、同僚を説得する。ユダヤ社会の壁が突き崩され、新しい社会が始まる。もはや使徒たちを止める力はない。福音が真に働いている。教会の伝える福音はユダヤ社会に閉じ込められず、世界全体へと広がっていくのである。

◇神様は、私たち罪人の業に聖霊を注いで、神の業、教会の業として推進される。教会はそうした群れとして立てられている。標語にある「主の業に励む」者として招かれているのである。

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