礼拝説教


2020/03/08

「“崇高な”誘惑を」

使徒言行録5:1〜11
牧師 古屋 治雄

◇来週の臨時総会に向け、長老選挙と年度予算承認の準備を進めている。苦難に遭遇してもそれを乗り切る力を神様は与えて下さる。特に使徒1-4章はそうであった。使徒達は力強い神様の言葉を与えられ、イエス様の甦りが示されていることの確信を得、麗しいほどの一致を得て人々に呼びかけた。すべてを共有し、キリストの復活を証し、周囲の人々から好意を持たれていたとある。

◇ところが今日の5章は一転した。アナニアとサフィラと言う夫婦も教会を担う者として呼び集められた者であった。先の共有し、貧しい者はいなかったという教会の人々の群れには、高揚感があったはずであり、アナニア夫婦もその中にあったはずである。アナニア夫婦が代金をごまかし使徒達の足下に置いたが、これは最初からの計画ではなく、代金を出す瞬間に思いついたことであろう。彼等にはそれほど重大な過ちではないと思えたかも知れないが、問題は全部であるかのようにごまかしたことであり、ペトロはこれを小さなことではなく、聖霊を欺いたと指摘した。順調に進んでいた初代教会の広がりの中に起こった厳しすぎると写る裁きであった。

◇しかし、言い換えると、私たちが神様の前で決断できることはキリスト者の特権である。神様が決断の責任を共に負って下さるという平安が与えられるのである。神様を知らない人々が周囲を気にしながら迷い、やがて疲れ果てることと較べると、キリスト者は神様の前に自由に決断でき、迷いから解放されている。

◇ところが、私たちキリスト者にも迷いが生じる。何らかのきっかけで土台が崩れるとアナニアの場合のように神様の前での偽りにつながる。アナニアはすべてを捧げると決めたのだが、彼が小さなことと思った迷いが命取りになった。サタンがつけ込んで大きな落とし穴になっていったのである。

◇神様の前に生き、決断する自由によって教会生活を推し進めるとき、大きな力が私たちに与えられる。これは人々を引きつける教会が教会である力である。年度の節目にそのように今日の言葉を聞き、歩みを進めたい。

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