礼拝説教


2020/03/01

「脅されても語る言葉を」

使徒言行録4:15〜31
牧師 古屋 治雄

◇使徒言行録3章には足の不自由な人が癒されるという奇跡が伝えられている。ユダヤ社会のただ中に、新しいことが起きている。それは、伝統に生きてきた人々には挑戦と受けとめられた。ひとりの人が癒されたという出来事は小さなことではなく、伝統的ユダヤ社会に大きな「くさび」を打ち込んだ。それだけでなく世界に影響を及ぼす決定的なできごとだった。

◇ユダヤ教指導層はこの奇跡を、神様の力の働きとは認めない。しかしこの出来事を「否定することはできない」(16節)ので、イエス様の場合と同様に「悪霊の頭によって行っている」と断定する。しかしその議論にも無理がある(マタイ12:24以下参照)。ユダヤ教指導層は二人の使徒を繰り返し脅す。しかし使徒たちは「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。」と弁明する。本来、「神の前に正しいかどうか」を考えるのはユダヤ教指導層の役割だったはずである。

◇使徒たちが仲間のところに戻った時に捧げられた祈り(24節以下)には詩編2編の言葉が引用されている。この世の力ある者はすべて、イエス様を通して働く神様の力を認めることができない。むしろ民衆の受けとめが真実を語っている。「皆の者がこの出来事について神を賛美していた」(21節)のである。多くの人が神様を賛美し、神様の力の現れを、喜びをもって受けとめている。あの癒された人に注がれた神様の力は、はっきりと、我々にも、止められない形で及んでいるのである。

◇あの人には神様の力が確かに働いている、と感じることがある。そうした証を聞きあうことができる。イエス様を信じ、祈り、望みをおく群れ、まさに教会そのものである。地上のどのような勢力も、私たちに働く力を抑え込むことはできない。それは決して小さいものではなく、世界を、歴史を変える力である。その力は、イエス様を復活させた神様の命に私たちを与らせ、その命に生きるものに変えるのである。神様のみを畏れ、賛美する群れに招かれ、導かれ、教会の歩みを担う者とされるのである。

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