礼拝説教


「他人は救ったのに、自分は救えない」

マルコによる福音書15:16〜32
  牧師 古屋 治雄


◇私たちは礼拝のたび毎に使徒信条を告白する。イエス様の十字架の死による救いの中心点を信仰の基盤として確認し、告白している。教会の歴史はこの中心点とともに始まり、すべての教会の歴史はここに結びつけられ、位置づけられている。私たち阿佐ヶ谷教会の活動もすべてこの中心点に結びついている。だからどんなに暗い世の中であっても私たちは絶望しない。教会の歴史はイエス様の再臨の約束に結ばれているからである。

◇逮捕されてのちイエス様は15章2節の言葉を最後に沈黙される。沈黙することで人々の思いを引き出しておられる。人々の思いとは徹底した侮辱である。これまでイエス様が展開されたお働き、み言葉、み業をすべて否定するのである。裁判は正しくなく、ピラトも人々の熱狂に押されてイエス様を十字架につけてしまう。その結果がこれらの人々による侮辱の数々である。イエス様を死へと追いやる力、つまり人間の心の奥の現実がすべてイエス様に向けられた事実がここに表れている。

◇通りがかりの人々の言葉も、ユダヤ教指導層の言葉も共通して「十字架から降りて自分を救ってみよ」と言う(30-32節)。そこには神を中心とし、神に仕える生き方から外れ、自分の生活が第一になっている地上の現実が表れている。人間のことを思い、自分を捨てられず、自分の命を救おうとする姿が人間の現実であり、イエス様はすでにそれを見抜いておられる(8:33-35)。自国第一主義が蔓延する21世紀のこの世の中で、余裕がなくなったら他者のことなど考えられない、それはしかたがないことだ、と弁解し、開き直って生きることもできるだろう。

◇それで神のいのちを生きていることになるのか、とイエス様は問いかけ、私たちを弁解できないところまで追い詰められる。しかしここで人間の思いを超えて、私たちはイエス様の姿を仰ぎ見て、赦され、とりなされて生きる者とされ、イエス様のまなざしに支えられ、滅びから救われる者となるのである。世のすべての人がその希望に招かれている。私たちもその福音に多くの人を導く者となりたい。

(C) Asagaya Church, United Church of Christ in Japan, asagaya-church.com