礼拝説教


2019/08/11—聖霊降臨節第10主日礼拝 —

「剣と棒を持つ者の前に立つ主イエス」

マルコによる福音書14:43〜52
  牧師 古屋 治雄


◇イエス様が逮捕されるこの場面では様々な力が働いている。ユダは、イエス様を捕えようとする人々とともにやって来て、最大の敬愛のしるしである接吻を逮捕の合図に変えている。これも一つの力である。祭司長らに遣わされた群衆は剣や棒を持って力でイエス様を捕えようとしている。イエス様の側にいた人のひとりが剣で大祭司の手下の耳を切り落とす。これらの行為も力である。ユダヤ社会のリーダーたちは、律法に基づかなければ裁くことも罰することもできないのに、そうした正当性なしにイエス様を捕えようと陰で画策し武力を行使している。

◇力の行使の責任は必ず問われ、その後の行動が強く制約される。ある確信をもってイエス様を引き渡したユダはその後、悲惨な最後をとげる(マタイ、ルカ)。本能的に反撃したペトロは、その行動をイエス様によしとされず、自分の力ではどうにもならないと知り、逃げ出す。群衆は、何のためにイエス様を捕縛しようとしているのか正面からとらえられず、きわめて無責任である。祭司長たちはどうか。自分たちの思惑通りになった、してやったり、これで終わったと思っていた。しかしそれは大きな間違いであることが後にわかる。

◇イエス様は「やられたらやりかえす」とは思っておられない。父なる神様から軍団を送っていただこうとは思っておられない(マタイ26:53-54)。聖書の言葉が実現するために、相手の力をすべてその身に受けておられる。そしてご自身の悩み、苦しみを通してご自身に及んだ力をすべて無力化されたことが、この後、復活の出来事を通して明らかになる。イエス様を死に追いやったこの世の力を全く意味のないものにする。それが神様の力である。

◇社会の中に遣わされて私たちは「力には力を」という場面に出会う。その時私たちはイエス様のこれらの出来事を思い起こすことができる。そのお姿の意味をしっかりと捉えて従い、行動し、宣べ伝える者でありたい。それが私たちの福音に対する役割であり、責任である。    

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