礼拝説教


2019/08/4—平和聖日礼拝—

「師のこころ弟子知らず」

マルコによる福音書14:32〜42
  牧師 古屋 治雄


◇今日の箇所はイエス様の逮捕へと続く厳しい場面である。そのことを予知してイエス様は苦しまれ、この時を大切な祈りの時とされた。イエス様はしばしば弟子たちを離れて祈られた。今回のような場面では、深い祈りを独りになってささげるのが普通かもしれない。しかし今回のイエス様は違っている。弟子たちとかかわりをもちつつ、深い深い祈りを捧げられたのである。またペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を伴って先に行かれたことは「ヤイロの娘の癒し」や「山上の変貌」の記事を想起させる。しかしここでは超越的な力を発揮しようとはしておられない。むしろ「わたしは死ぬばかりに悲しい」と吐露しておられる。弟子たちには、父なる神に祈るご自身の姿の全体を見て、ご自身とともに目をさましていることを求めておられるのである。


◇しかし弟子たちはイエス様の思いを受け取ることができない。これらの言葉を聞いたらイエス様から視線をそらすまい、その祈る言葉を聞き漏らすまいとするのが当然であろう。また、直前の箇所でイエス様からの「否認の予告」を受けて、「死ななければならなくなっても、あなたを知らないなどとは申しません。」と言い張ったにもかかわらず、弟子たちはみな眠りこけてしまうのである。ここに人間の現実がある。

◇この醜態をさらす弟子たちを繰り返し引き寄せ、気にかけてくださるのがイエス様である。イエス様はこのぶざまな弟子たちを切り捨てず、なお支えてくださる。イエス様の方から断絶なさることはない。このことはイエス様の父なる神への絶対的な信頼によっている。「この杯を取りのけてください。しかし御心に適うことが行われますように」という祈りの言葉と、「アッバ」という信頼の言葉にイエス様の本質が表れている。ヨハネ17章にあるようにイエス様は弟子たちのためにとりなしの祈りを捧げてくださった。そして私たちをも弟子としてくださった。そのことに感謝し、主の恵みのうちに生きる者とされたい。

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