礼拝説教


2019/04/28

「弟子たちを追う復活の主」

ルカによる福音書24:13〜27
  牧師 古屋 治雄

◇復活のその日の出来事である。二人の弟子はエルサレムからエマオへと向かっていた。主イエスの十字架と死、そして墓が空であってご遺体がみつからないという婦人たちの報告を受けとめきれず、これらの事実や主イエスの言葉から遠ざかろうとしていたのではないか。生命活動を停止した人がよみがえることがあるのだろうか。あるとして、それを信じない人にどのように伝えればいいのだろうか。エマオへの途上、二人の弟子はそのように論じ合っていた。

◇二人の弟子は、近づいて来られたイエスにその人とは気づかない。3日前まで一緒にいて気づかないはずがない、と私たちは思う。しかしそれほどに死の支配は大きく、さえぎる力は強いのである。主イエスの受難と復活の3回の予告を受けとめきれず、暗い顔をしていたのである。

◇二人は21節にあるようにイエスを政治的な力ある王と見ていた。しかしイエスが亡くなってその望みは断たれた。そしてその責任を祭司長や議員たちというユダヤ指導層に押しつけようとしている。弟子としてどう受けとめなければならないか、どういう責任があったか、二人の考えはそこに至っていない。そのような彼らをイエスは叱責される。しかし裁いておられるのではない。旧約聖書の全体がご自身の十字架と復活に結びついていることを恵みのうちに説き明かされる。

◇二人はなお主だと気づいていないが、彼らに働きかける主の力、パンを裂く行為に見られるような主の働きを通して、主との関係が回復された時、気づく。そして心燃える喜びのうちにエルサレムの道へと向きを変えるのである。

◇イエスの苦難と十字架、そして復活が、このわたしのためであり、このわたしにとって決定的なことととらえられない限り、復活は喜びにはならない。しかし、主イエスの力に包みこまれ、変えられ、主イエスとの結びつきの中に入れられる恵みにあずかる時、私たちに悔い改めが生じ、人生の向きを変えられるのである。

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