礼拝説教


2019/04/14ー棕櫚の主日礼拝ー

「いかなるメシアを待望するか」

マルコによる福音書12:35〜40
  牧師 古屋 治雄

◇今日の聖書箇所は論争の火曜日のできごとである。もはや質問する者はなく論争は収まったように思える(34節)のに、イエスの方から新たに問いかけておられる。イエスにははっきりさせておかなければならないことがあった。イエスはどのようなメシアであるのか、である。当時の政治的背景を考えると、ユダヤ人の指導層やファリサイ派は、イスラエルを強国の支配から解放する力強い王、ダビデ王のような王を待望していた。

◇36節は詩編110編1節からの引用。ダビデは「造り主なる神の言葉がメシアなる主に臨んだ」と述べている。「自分に」とか「自分の末裔に」とは言っていない。メシアがダビデ王のような王でないことはダビデが謙虚にも証している。にも拘わらずユダヤ人の指導層たちは、メシアは力強い王というイメージを持っていた。ダビデの子であることをイエスご自身は否定しておられない。イエスが王であることは間違いない。しかしどのような王なのかが問題である。

◇イエスの教えに耳を傾けた群衆は喜んだ。しかし彼らは学者たちを批判するイエスの言葉に好感を持っただけではなかったか。メシアの姿を正しく捉えていたとは言い難く、数日後には「十字架につけろ」と叫ぶのである。

◇私たちは律法学者、ファリサイ派、群衆、弟子たちのありさまを見て「なぜきちんと受け止められないのか」と思う。しかし私たちの中にも同様に、日ごろのみじめな、我慢ならない日常の生活や境遇を強い力で払いのけたいと考える本質がある。38節以降は自分では気づかず律法学者のようになっていないかというイエスの警告である。イエスはすでに私たちの本質を見抜いておられる。しかもこの本質を取り去ってくださると約束しておられる。

◇私たちが罪赦されて恵みの内に生きることができるように、力を誇示する生活を捨て、人に仕え、和解する神の民の一員として生きることができるようにと、主イエスは十字架への道を進んでくださっている。感謝しつつ受難週の歩みを進めよう。

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