礼拝説教


2019/03/03

「主イエスにあっては死んでも生きる」

マルコによる福音書12:18〜27
  牧師 古屋 治雄

◇祭司の多くが属するサドカイ派は、現実的な考えを持ち、祭司の仕事はするが貴族的な性格を持ち、裕福な人々であった。また聖書にあるとおり、復活を信じておらず、天使の存在や霊的なことも信じていなかった。そのサドカイ派の人々が現実的視点、世俗的視点でイエス様をやり込めようとした。目に見えないことを否定するこの人々をイエス様はどう見ておられるかを我々は注視しなければならない。

◇イエス様はエルサレムに入る前に弟子たちだけに受難と復活の予告をされたが、ここでサドカイ派の人々は現実的視点で復活について論争を挑んだ。申命記25章中心にあるように、亡くなった人の兄弟はその妻をめとり一族の血と財産を絶やさないようする、いわゆるレビラート婚の決まりがあった。サドカイ派の人々はこれを使い、極めて興味本位で現実的な見方で、地上の生活を天上での復活の生活にそのまま当てはめて質問した。

◇イエス様は即座に「思い違い」であると反応された。現実の枠の中でしか考えられないということはサドカイ派の人々に限らず、我々にとっても自分の死や親しい人の死とどう直面するかという意味で重要である。

◇イエス様は「めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」とまず答えられ、天使を信じないサドカイ派の人々に、天上の生活は地上の再現でないことを指摘された。次にモーセ五書のみを信じるサドカイ派に対し、モーセの柴の箇所(出エジプト記)から「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」であることを引用され、アブラハム、イサク、ヤコブが暗に死んで終わってしまったのかでないことを説かれた。

◇天での肉親の交わりを再現するイメージをどう膨らませるのではなく、天では全く別の永遠の命があることを地上にあるときに信じて歩きたい。キリストにあって死んでも生きるもの同志として、天上での豊かな交わりが約束されていることを信じて神に委ねて生きる者となりたい。

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