礼拝説教


2019/02/03

「修復される亀裂」

 マルコによる福音書12:1〜12
 牧師 古屋 治雄

◇日曜日に神様が生ける言葉を呼び掛けて下さって、私達は御言葉に支えられて毎週歩むことができる。御言葉が聖書の中の物語を通して私達に示されているのは事実である。

◇イエス様がエルサレム神殿に入られて色々なことが起こったが、今日の箇所ではユダヤの指導者達を中心にしてぶどう園のたとえを話された。

◇丹精を込めて作ったぶどう園をそのオーナーである主人は小作の農夫に任せて旅に出る。収穫の時になったので僕を4人以上遣わした、農夫たちはその僕を追い返したり、痛めつけたり、だんだんエスカレートして命まで奪ってしまう。さらに主人は愛する息子を遣わす。主人の期待にも関わらず、農夫たちは跡取りを殺せば財産が自分達のものになると息子を無残に殺してしまう。イエス様は「ぶどう園の主人は、どうするだろうか」と聞いている人々に問いかけられた。

◇早い段階でイエス様に殺意を向けていたユダヤの指導者達は、イエス様が「自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づき、苦々しい思いが一層強く湧き上がってくる。

◇さらにイエス様は詩編118編を引用された。家を建てる者の捨てた石が隅の親石となる。家を建てる技術においては全くあり得ないことが起こった。この石はイエス様であることは確かである。使徒4章にも語られている。このように捨てられたものが神様の不思議なお力によって全く違うものに変えられている。イエス様を死へと追いやった力が、イエス様の復活によって無力化した。

◇「ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」と聖書にあることに注目したい。貸し与えるのではなく与えて下さって、そこから出る恵みを豊かに受けるものとされる。地上で生きるすべての人々に神の恵みが与えられる。決定的な裂け目が神の赦しの中に修復されていく。神様から引き裂かれて裁かれるのではなくて、神様の赦しの中に私達は回復されるものとされている。神様の栄光を現す存在として私達は生かされている。イエス様のお働きを感謝して歩みたい。

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