礼拝説教


2019/01/13

「和解を生みだす祈りの力」

マルコによる福音書11:20〜26
 牧師 古屋 治雄

私たちは、「祈りの家」というみ言葉で新年をはじめました。エルサレムの神殿でそれを語られた記事を囲むように、いちじくの木の出来事が示されています。

◇いちじくが実を結ぶ季節ではないのに、イエス様は実を求め、いちじくの木を呪われました。荒れている湖を叱ることと同じでしょうか。意外なことを言われたのです。宮清めも、考えられないような行動でした。しかし、これらは八つ当たりではなく、弟子たちの前で行われたことであり、示されたい何かがあるのです。呪いの言葉を弟子たちは聞いていました(14節)。

◇いちじくの木は、ブドウの木のようにイスラエルをたとえることがあります(ルカ13:6-9)。恵みを受けて繁栄します。本来の働きを果たしているのでしょうか。神の民への呼びかけの中に今日のみ言葉があります。

◇信じて祈るとき、神は成し遂げて下さいます。ここだけ抜き取ると、クリスマスプレゼントに、欲しがるものを求める子どもの祈りのようです。祈りの家を大切にすると共に、祈りの内容が重要です。弟子たちはこの言葉をどう聞いていたのでしょうか。イエス様の思いは切実だったのです。神の力をどこに求めるべきなのでしょうか。

◇25節にあります。「天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」祈りの内容は、神の赦しの力なのです。神の方に向いていないのなら、いちじくのように滅ぼされます。滅ぼされていても仕方のないことです。赦されていることは、本来あり得ないことです。

◇神との和解に導かれている者は、横の繋がりにおいても和解があります。「赦してあげなさい。」赦してあげなさいというみ言葉と共に、さらにあり得ない言葉があります。「からし種一粒ほどの信仰があれば、…(ルカ17:6)。」私たちは、赦しに与って生きているのです。赦された者として、喜びを持って生きるのです。その証しをもって、この一年を過ごして参りましょう。

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