礼拝説教

2018/11/18

「見えるようになりたい」

マルコによる福音書10:46〜52
 牧師 古屋 治雄

◇聖書の中で、イエス様が子供達の祝福をされた出来事はイエス様が十字架への歩みの中に結ばれ、今日の箇所は受難の予告をされた一番最後の出来事として位置付けられる。

◇子供達の祝福の場面で子供達を止めたのは弟子達だったが、大声で叫んだバルティマイを黙らせようとしたのは町の人々だった。弟子達も内心、賛成していたと思う。

◇ナザレのイエスと聞いていたバルティマイは、「ダビデの子イエスよ」と叫んだ。これはメシアをイエス様と見ている。しかも、力あるメシアとして。イエス様が多くの奇跡の業を行われ、メシアかも知れないという期待がバルティマイにも届いていた。ユダヤの人々はローマ帝国の圧政に苦しんでいたので、ローマの支配をひっくり返してくれるであろうあのダビデよりも強いメシアが現れることを待望していた。

◇バルティマイは「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。あからさまに叫ぶということはローマ帝国の支配下では危険なことである。イエス様はそこに立ち止まってくださった。施しを受けるために必要な上着を脱ぎ捨ててイエス様のところに来、素晴らしい力に与れるようにお願いした。

◇弟子達にはイエス様の本当のところが見えていない。イエス様は分かっていない弟子達を叱りつつ、大勢の自分を慕う人々とともにしっかりと自分のもとに引き留めておられる。このイエス様の一行は時代を越えて教会の群を見る思いがする。見えていないものが見えるようになるために、主は着実に十字架の死と甦りの歩みを歩んでおられる。

◇私達の教会もこのイエスキリストによって導かれている群である。神様は教会にどういう役割を託してくださっているか。バルティマイのようにイエス様に憐れみを乞い、見えるようになって、神様の福音に生きる喜びと責任と光栄とが私達の中にはっきりと示されて、その事を受け入れ、喜び、患難を忍耐し、主に従っていく者とされたい。
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