礼拝説教

2018/11/11

「抑えがたい功名心」

マルコによる福音書10:35〜45
 牧師 古屋 治雄

◇ゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟は雷の子と呼ばれていました。同じように兄弟で弟子になっているのは、シモン・ペトロとアンデレで、同じ漁師でした。ヤイロの娘の元に行ったときも(5:37)、山上の変貌に立ち会ったのも(9:2)ペトロとヤコブとヨハネだけでした。彼らはイエス様の弟子の中でも重要です。ヤコブとヨハネには、イエス様から特別に見られているという意識があったかも知れません。

◇弟子たちは、イエス様の死と復活の予告で、不安に包まれていました。死だけでなく、三日の後の復活の予告もあります。復活とは栄光のことと考えていたのでしょう。三度の死と復活の予告でも、それを受け止められずに、良いところだけを見ていました。だいたい、ペトロの「あなたはメシア」という告白も、ローマに支配されているユダヤに対して、伝統に従った強いメシアを思い描いていたことです。二度目の予告の後でも、ヨハネは、イエス様の権威を他の人たちが使わないようにこだわっていました(9:38)。ペトロは、すべてを捨ててイエス様に従ったと言っています(10:28)。今までの価値観を捨てているはずでした。

◇ヤコブとヨハネは、「栄光をお受けになるとき、特別な座に座らせてください。」と頼みました。マタイによる福音書では母が頼んだという記事になっています。弟子としての責任を和らげようとしたのでしょう。

◇弟子たちは腹を立てます。みな、すべてを捨ててイエス様に従った訳ではなかったようです。弟子たちの悪いところが表面化しているのに、イエス様には、無理解に対するいらだちはありません。力を振るう者の心がおわかりになっているからです。

◇最後の45節は、受難予告のまとめの言葉です。仕えさせたい、支配したいではありません。許されていることを喜ぶ者として、生きるようになりなさい。わたしたちはイエス様の死によってあがなわれているのです。
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