礼拝説教

2018/11/4

「主イエスの三度目の死の予告」

マルコによる福音書10:32〜34
 牧師 古屋 治雄

◇イエス様はエルサレムに上って行かれるとき三度目の受難予告をされた。32節にあるようにその表情は人々を恐れさせるほどの様子であった。この受難予告は、12人の弟子たちに向けられ、ユダヤ人の指導者達のみでなく、イエス様を侮辱し、むち打ち、殺すであろう異邦人にも言及している。ユダヤの指導者達にとって律法を行うことによって神との関係を築き上げていくことが一番大事なことであった。イエス様はその関係を変えてしまった。

◇富める人の譬えでは、この青年はイエス様が登場しなかったら、律法を完全に守るだけの自分の生活が真の救いに入れられていないことに気がつかなかったかも知れない。イエス様に触発されてその確信がゆらいだから来たのである。弟子たちはそれでは何をしたら永遠の命、すなわち神の国に入ることが出来るかと問うた。イエス様の言葉は彼らを絶望の淵に導いたのではない。人間に出来ないことが神には出来ると言われたのである。

◇マルコ15章で人々は「自分を救って見ろ」とイエス様に言った。私たちがどんな救いを求めているかがこの言葉には集約されている。私たちは今の自分の生活を大事にし、自分を中心に生きている。イエス様は新しい生き方を呼びかける。つまりあなた方の中で一番偉くなりたいものは僕となりなさいと命令として語られる。

◇我々は内心そんなことは現実にはやっていけないと思うことがある。地の塩会、共励会の修養会が行われたが、この中で若い人達が職場のいろいろな思いの中でクリスチャンとして立ち往生することがあることが話された。イエス様はそうしたことをご存じの上で言われるのである。人には出来ないことが神には出来る。

◇十字架の死で最終的に明らかになったことはイエス様を死に追いやった力が敗北したことである。イエス様を十字架に追いやるのは私たちであるがこれが結論ではない。十字架の死を仰ぎ、その中に生かされている復活の主にまみえる希望をもって生かされたい。
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