礼拝説教

2018/8/26

「弟子たちの綻び」

マルコによる福音書9:30〜37
 牧師 古屋 治雄
 

◇地上に来られた主イエスは我々一人一人と出会いを求めて迫ってこられる。神との人格的な出会いが信仰であり、これにより我々は新しく変えられる。

◇主イエスは自ら決心して主イエスを求めて進み出て行った人々、大決心はしなくともなんとなく主イエスに引きつけられた人々、主イエスに敵対心をもって近づいた人々のいずれをも受け止められ恵みに導き入れられる。

◇主イエスはこうした一般の人々と違い、弟子たちを「私に従いなさい」と特別に召された。これは特別な選びである。この弟子たちに対して主イエスは2回目の受難予告を言い渡された。

◇キリスト者の私たちも自分の意思にかかわらず、神の救い計画の中で選ばれたものであり、主イエスに出会えた喜びを受けとめ、そこに立ち、聞く使命を持っている。

◇2回目の受難予告に対して、主イエスの弟子たちはその意味が理解できずに、怖くて尋ねられなかった。その不安のなかでカファルナウムに着いた弟子に「途中で何を議論していたのか」と尋ねられる。弟子たちは、主イエスが皆の期待に沿う奇跡行為をするのでなく死へ向かうことが理解できず、自分たちの中で一番偉いのは誰かと論じ合っていた。このことを主イエスは見通されていた。悪魔に誘われ議論に陥ってしまったなんとひどい弟子たちであろうか。

◇そのような弟子たち対しても「一番先になりたいものは、すべての人に仕えるものとなりなさい。」と、また子供のように受け入れなさいと諭される。これを弟子たちが受け止めることができたかは疑問である。主イエスの受難の言葉は、弟子たちの心の奥底に潜む根強い思いを露呈させた。

◇受難の予告は、この弟子たちの心のほころびを告発するものであるが、私たちが神に信頼して共に生きるようになる呼びかけである。破綻している弟子たちや私たちを主は十字架と復活の恵みの中に生かされている。

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