礼拝説教

2018/8/5

「苦しみを負うことから栄光が」ー平和聖日礼拝ー

マルコによる福音書9:2〜13
 牧師 古屋 治雄
 

◇8月最初の日曜日の平和聖日の今日、何が求められているのか、日本が歩んできた戦争の歴史を主にある者として風化させてはならない。主イエスは「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」と言われた。この主の熱意ある言葉を、やり過ごしてはいけない。

◇今年5月に「暴力の世界で柔和に生きる」という本が出版された。ハワーワスという神学者と障害者共同体ラルシュの設立者ジャン・バニエの共著である。このラルシュにおいて世の権力者たちは注目することはなくても「柔和さ」が実現されていること、柔和と政治は結びつけることが可能であることが論じられている。そしてイエスの十字架により「わたしたちの孤独は乗り越えられており、互いに信頼することができる」ことが宣言されている。

◇マルコ9章には主イエスの受難の後、何が明らかにされるかが先取りして示されている。それは、復活によって現される「メシアが到来している姿」であり、そこには「栄光」「輝き」があることを示されている。

◇マルコ8:27以降でイエスは受難予告を理解できないペトロを叱責されるが、それは弟子たちを粉砕し蹴散らしてしまわれたわけではなく、神の国が現れるときにメシアが再び到来したこと、そして弟子たちをその栄光の中に生きる者としてくださったのである。

◇エリヤもモーセも主イエスと共に現れ、指導者たちが待望していたユダヤ指導者たちの前には現れることはなかった。敵対する者を蹴散らす力強いメシアとは対照的に、多くの苦しみを受け律法学者に排斥され殺されてしまう主イエスが、メシアを待望する神の民の歴史の中心に今おられるのである。

◇我々はすでに復活に招き入れられて生かされており、力に頼らずとも、イエスの十字架の中に地上のどんな輝きも及ぶことのできない輝きがあることを知っている。  

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