礼拝説教

2018/5/27

「生きるとはキリスト」

フィリピの信徒への手紙1:12〜26
 伝道師 江原有輝子
 

◇パウロは本文の最初に「福音の前進」を記す。福音を前進させるのは天の父なる神様である。

◇パウロは、福音を前進させるなら投獄も不純な動機の宣教をも喜ぶ。そして「生きるにも死ぬにも自分を通してキリストが栄光を受けること」を切に願い、「わたしにとって、生きるとはキリスト」「死ぬことは利益」と書く。

◇私たちにとって自分や大切な人々の生死は決定的に異なり、通常は「生か死かどちらを選ぶべきか分からない」などと言わない。私たちは、「私の死によって福音が前進することを切望します」と喜べるだろうか。どうしたら「死ぬことは利益なのです」と言えるのか。

◇パウロはキリスト者の死とは何かを私たちに教えている。生きる時も死ぬ時も、私たちは自分の全存在を通してキリストを宣べ伝える。キリスト者にとって「生きるとはキリストであ」るからだ。死に直面する時、自分の死を通してキリストがあがめられると知るなら、大きな慰めとなる。そして、この世を去ればキリストと共にいることができる。

◇ガラテヤ書は「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きているのです」と言う。私たちは、受洗した時、キリストと共に十字架につけられて死に、キリストと共に復活した。だから、私たちを生かしているのは私自身ではなく、キリストである。その時、私たちの生も死もキリストの栄光を指し示し、私たちは「生くるも良し、死もまた良し」と心から言うことができる。

◇パウロは死刑を覚悟しつつ、今はフィリピ教会のために必要だから「私は生きながらえてあなたがたの所にとどまる」と確信する。

◇生も死ももはや私たちのものではない。生きる時キリストを宣べ伝えることができ、死ぬ時は自分の身によってキリストが公然とあがめられるよう願うことができる。私たちにとって生きるとはキリストであり、「生くるも死ぬるもただ主のため」なのである。

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