礼拝説教

2017/10/08

「召されたときのままで」−神学校日・伝道献身者奨励日礼拝−

コリントの信徒への手紙一 7:17〜24
  東京神学大学准教授 長山 道先生 



◇わたくしたちは皆それぞれに違った生き方をしていますが、どうして今のような生き方になったのかと問われると、答えるのは難しいのではないでしょうか。自分の意志や力だけではどうにもならなくて、思いどおりにいかなかったという経験は、誰にでもあるのではないでしょうか。そんなとき、信仰者であれば、行くべき道を神によって示されたいと願うのではないかと思います。

◇神が示されているのは、「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩」(17節)むことだと、パウロは教えています。神に召されるとは、神に呼ばれて、神のものとされることです。

◇普通、自分は自分のものだと考えるものです。ですから、自分が神のものとされるなんて不自由で嫌だという思いも生じるでしょう。しかし本当に自分は自分のものでしょうか。大きな決断をしなければならないときなどに、自分がいかに頼りないものであるかを痛感させられはしないでしょうか。自分の思いや言葉や行いが、いつの間にか自分以外の何かに支配されてしまっていることも多いのではないでしょうか。

◇そのような人間が神に召されて、神のものとされることが、救いです。わたくしたちは、キリストの死と復活という身代金を払って買い取られ、神のものとされました。そのような大きな代価を支払ってくださるほどに、わたくしたちは愛され、神のものとされました。つまり、神以外の何ものにも支配されないものとなりました。それは自分の自由意志を奪われて不自由になることではなく、自分でもどうにもできない不自由から解放されること、本当に自由になることです。

◇召されたときと同じように、人の前ではなく神のみ前にとどまることで、人は本当に生き、本当の人になることができます。「神の掟を守る」(19節)生き方そのものが証しとなります。神に召されて生きる生き方にこそ、慰めと喜びがあるのです。

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