礼拝説教

2017/09/24

「私の頭の中の祝福」

創世記27:18〜29
  牧師 加藤真衣子 



◇創世記27章では神の祝福をめぐって、人間たちの色々な想いがうずまいている。ヤコブ は父イサクがエサウに与えようとした祝福を横取りした。エサウは悲痛な叫びをあげて激し く泣いて父に訴えた。けれども奪い取ったとはいえヤコブが受けた祝福はくつがえることは ない。 ヤコブはエサウの憎しみから逃げるため、故郷を背に旅立つことになった。

◇族長物語は、故郷を失い、生活の基盤を失う人々を描く。アブラハムも、その子孫ヤコブ もヨセフも、故郷を追われ、さすらう旅を強いられた。神の祝福を約束された民は、さすら いの旅をする、寄る辺ない民だ。そして私たちも、ヤコブのように本来の故郷を失っている 者だ。

◇祝福が確実だったヤコブ。しかしその生涯は祝福の連続ではなかった。逆に、果てしない 苦悩の連続だった。彼は晩年、自分の生涯を振り返ってこのように言った。「わたしの生涯の 年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。(創47:9)」

◇祝福とは何か?私たちが思い描く、目に見える豊かさとは違う。祝福される人は、自ら願う 通りにはならない。行きたくないところへ遣わされ、しばしば苦悩する。しかし聖書は、「ヤコ ブは祝福された人」と告げる。

◇祝福は私たちの頭の中で考えるものと違う。
私たちの思いを超えて、主の御心が実現する。苦しむことも、主の祝福の実現なのだ。そ して主の定められる時にかなって、主の祝福を一方的に確認させられつつ、私たちは主と共に 旅路を歩むのだ。

◇イスラエルの族長たちがそうであったように私たちは失敗し、挫折する。しかし主の祝福の 実現が揺らぐことはない。私たちはヤコブのように、本来の故郷を失っている。主のもとから逃亡し、 安息の枕を求め、名も知れない場所で一夜を明かしながら旅をしている。そんな孤独な旅の途上でこそ、 ヤコブが天から地にのびている階段があることを知ったように、私たちも主の限りない祝福があることを 知らされる。いにしえより確かな、永遠に変わらない主なる神の祝福の担い手として、遣わされていこう。

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