礼拝説教

2017/09/03

「まことの安息とは」

マルコによる福音書2:23〜28
牧師 古屋 治雄



◇ユダヤ社会では主イエスの時代よりももっと古くから安息日が大切に守られていました。主イエスはそのような伝統の中で、新しい神の国の到来を宣言され、その具体的な展開が当時の安息日の守り方にも向けられました。「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた」(23節)ところをファリサイ派の人々が目撃して、このことを主イエスへの格好の攻撃材料として告発しました。当時の安息日規定で弟子たちの行動が刈り入れあるいは脱穀の仕事をしたことに当たるからです。

◇主イエスはこれに対して、元々安息日の問題とは別になる、聖書からダビデがとった行動を引き合いに出して論争されました。「ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか」と(26節)。主イエスがここに引用された話しに私たちは注目させられます。それは、ファリサイ派の人々が安息日規定を表面的にしか捉えていないことが暴露されているからです。そもそも安息日を神様の前でどのように大切にしなければならないか、律法とはそこから発しているものですが、そのことに頓着せず、ファリサイ派の人々がただ規則違反だけしか眼中にないことが露わになっているからです。主イエスはダビデの違反行為を、空腹のなか人がいのちを支えていく!
とを肯定していく自由な視点に立っておられるのです。

◇出エジプト記と申命記に示されている十戒の安息日規定をみると、そこには神様の天地創造の恵みの中に私たちが生かされ支えられていることを覚え、またイスラエルの民がエジプトでの奴隷状態から救済された恵みを覚える時とされています。神様が圧倒的な恵みを現してくださったことに私たちが立ち戻ることができる日と言い換えてもいいでしょう。

◇主イエスは「人の子は安息日の主でもある」とも言われました。主イエスは旧来の安息日理解を超えて、死の支配からよみがえってくださって、死に勝利された日を私たちに与えてくださいました。
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