礼拝説教

2017/7/30

「たえなる幻を見るかな」
−聖霊降臨節第9主日礼拝−

ローマの信徒への手紙9:19〜28
  牧師 加藤真衣子



◇今年も平和を祈る夏を与えられている。ある生徒が「戦争のときは、神様の御心が人間の罪に負けたのか?」と問うた。72年前の戦争の悲惨さは、私たちの目には神のみわざを覆い隠すような出来事だった。それは主の十字架の出来事と同じだ。

◇主が十字架の上で死なれたとき「十字架につけろ!」という人々の叫びが、神の力より勝利したように、人の目には見えただろう。主は弟子たちに裏切られ、お金で売られ、人々から辱められ、孤独に死なれていった。そのお身体は墓に葬られた。しかし目に見える出来事の背後に、見えないけれども確かにある、神の事実を見よと、聖書は告げる。

◇神の事実、それは主の死が罪びとの身代わりだったこと。人の罪を滅ぼしつくす、神の子の死であったこと。そして主は私たちの初穂として復活されたこと。主は天に昇られ、神の右に座し、すべてを支配しておられること。やがて主は、かしこよりいらっしゃること。その時には、古い天地は過ぎ去り、新しい神の国が完成することである。

◇これらの事実と約束は、肉眼では見えない。 しかし信仰の目において仰ぎ見た信仰の先達はそれを語り継ぎ、書き遺してきた。日本でも、宮城遥拝を余儀なくされながらも、目に見える現実を超えた、神の国がかならず来る、私たちは神の国が完成する途上にいるのだから、希望をもっていこうと、福音を伝え続けた先達がいる。そして今、み言葉を聴く私たちも主の証人として、「主の救いの事実はまことにアーメンである」と、主を賛美するのだ。

◇「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。(9:24)」イスラエルも、私たちも、神の憐れみを運ぶ器とされている。この器は時々壊れる。自分自身で壊したり、誰かに傷つけられたり、粉々になったりする。しかし贖い主は、造り主でもあられる。造り主は何度でも、どこからでも再創造なさるのだ。御国が完成する日を、信仰の目で仰ぎ見つつ、主の憐れみを運ぶ器として、遣わされていこう。

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