礼拝説教

2017/7/2

「人を惹きつける権威とは」
−聖霊降臨節第五主日礼拝−

マルコ福音書1:21〜28
  牧師 古屋 治雄



◇主イエスは故郷のガリラヤのナザレを一時離れられましたが、神の民がどういう日常を過ごしているかつぶさに見ておられました。そしてそのガリラヤで神の恵みの御支配を現す、神の御子としてのお働きを開始されました。

◇21節に、主イエスが安息日にカファルナウムの会堂に入られて、教えられたことが伝えられています。そしてここに今までの日常を越えることが起こりました。当時ユダヤ教の指導者によって会堂で教えが語られていました。その際には連綿と続く律法の教師たちが紹介され、その伝統と正統性が紹介されていましたが、その教えにまたその教師に「驚く」ことなどあり得ませんでした。

◇主イエスがここで教えられたことはそういうことではありません。「教え」と言っても「教える」教えではありません。会堂に集まっていた人々は主イエスが語られた言葉(教え)に神様の呼びかけと、神様の宣言を聞き取ったのです。どんな言葉を主イエスが語られたか直接には伝えられていませんが、それは「時は満ち、神の国は近づいた」(1:14)という呼びかけと宣言につながっていることは確かです。主イエスは聞いている人々に神様御自身がお語りくださっていることをお示しくださいました。「権威ある者としてお教えになった」(22節)ということは、主イエスによって神の権威そのものが現され、聞く人々にまさにそのように受けとめられた、ということです。本来ならば当時のユダヤの指導者たちこそ神様の権威を体現している人々のはずですが、そうなっていませんでした。

◇つづく23節以降に主イエスの教えが、律法を説明する単なる教えではなく、神の恵みの出来事を引き起こす力をもっていることが明らかにされています。この会堂にいた「汚れた霊に取りつかれた男」の人は、神の恵みの御支配の中に生きることができていない、私たちを代表している人と言って良いでしょう。この人に主イエスは命令形をもって働いてくださいました。この人を神の恵みの中に生きることができる人間として取り戻してくださいました。

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