礼拝説教

2017/05/14

「悔いるこころを与えられて」

イマルコによる福音書1:2〜8
主任牧師 古屋 治雄



◇冒頭の表題につづく2-8節にまず登場しているのは主イエスではなく洗礼者ヨハネです。ヨハネは人々に悔い改めの洗礼を宣べ伝える役割を神様から託され、預言者としてその役割を担いました。このヨハネは自分の思いや決心でそうしたのではありません。

◇かつてイスラエルの民がバビロンに捕囚されていた時代に第二イザヤという預言者が登場し神が捕囚中の民にとっては思いもよらなかったかつての約束の地に帰還する道を開いてくださったことを告げました。ヨハネは、神の慰めが注がれたその歴史を想起しながら自分の遣わされている今の時代、すなわち神の御子である主イエスを迎える時代に立たされていることを自覚して、同時代の人々に悔い改めの洗礼を宣べ伝えたのです。そして5節をみると、このヨハネの悔い改めの呼びかけに「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」というのです。これは驚くべき出来事です。

◇私たちは悔い改めが難しいことを経験しています。神の前に本当に打ち砕かれて懺悔の思いが湧いてくるということは人間の反省する意思の問題ではなく、神様が働いてくださらなければ起こり得ないことです。

◇洗礼者ヨハネは、イスラエルの歴史の中に登場した預言者たちがいずれも成し遂げることができなかった神の民全体に悔い改めを呼び起こすことができたのです。これまで登場した預言者たちと洗礼者ヨハネには決定的な違いがあります。それは、ヨハネがはっきり「わたしは水で洗礼を授けたが、・・・聖霊で洗礼をお授けになる」その方=神の子イエス・キリストを知る者とされていたことです。ヨハネから洗礼を受けた人たちは、それによって神様の前にしっかり生きることができると考えたかも知れません。しかし水による洗礼とは、人間の自省する意思が中心になっています。洗礼者ヨハネは、人間の悔い改める覚悟とか真剣さに根拠をもつのでない、神様が私たちに介入し働いてくださる、聖霊による洗礼が主イエスによって私たちに与えられていることを宣言しています。

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