礼拝説教

2017/05/07

「良き知らせの到来」

イザヤ書52:7〜10、マルコによる福音書1:1
主任牧師 古屋 治雄



◇今日から新たにマルコによる福音書の御言葉が私たちに与えられています。「神の子イエス・キリストの福音の初め」この冒頭1章1節は、書き出しの始めという意味と同時に、イエス・キリストによって新しい救いの時代が始まりました、という広範の内容をも意味しています。

◇「福音」という言葉は、マルコ以前にも(パウロもこの言葉を用いています)主イエスの言葉と行いそしてその存在そのものを指して用いられるようになっていました。しかし当時元々はローマ皇帝の戦いの勝利を伝える「喜ばしい知らせ」などを意味していた言葉です。皇帝の戦の勝利を意味していた言葉を地上の王の勝利ではなく、十字架と復活を成し遂げてくださった主イエスの出来事による神の勝利の良き知らせとして大胆に語り伝えているのです。

◇「神の子」という言葉についても、ローマ皇帝が「神」とされたり、あるいは「神の子」とされていた時代のただ中にあって、十字架で無残な姿で殺され

、死んでいった主イエスこそが「本当に、この人は神の子だった」(15:39)と、この福音書のなかではっきり告白されています。 ◇私たちが今日すでに言い慣れている「イエス・キリスト」という言葉も特にユダヤ的伝統からするとまったく受け入れがたいことでした。ガリラヤのナザレ出身で奇跡的なことを行ったとは言え最後は茨の冠をかぶせられて死んでいった主イエスこそ、ユダヤ社会で待望されたあのダビデ王を超える王=メシアでありキリストである、とこの言葉がすでに告白しているからです。

◇マルコの時代は主イエスの十字架と復活の出来事が起こってから40年にならんとする時代でした。しかし益々この出来事に現されている衝撃は止むことがありませんでした。それは、主イエスを十字架の死へと追いやった力が最終的な力とならなかったことを意味しています。いや積極的であれ消極的であれ主イエスを十字架の死に向かわせた力は神によって無力化されてしまったのです。マルコは世界の歴史の中に起こったこの衝撃的な出来事を「良き知らせ」として私たちに告げています。

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