礼拝説教

2017/04/23 −復活節第2主日−

「復活されたキリストを見る者」

ヨハネによる福音書20:24〜29
主任牧師 古屋 治雄



◇ヨハネ福音書を見ると、弟子たちはイースターの夕方に復活された主イエスに出会うことができました。しかし、弟子のトマスはその時にいませんでした。他の弟子たちからその事実を聞いてもトマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と主張していました。26節をみるとトマスはこの思いのまま一週間を過ごしていたことが分かります。この主張の裏にはトマス自身のこだわりが滲み出ています。それは主イエスが手に釘を打ち込まれ、脇を槍で刺し貫かれて死なれた十字架の死の様を自分の頭の中から消し去ることができなかったのです。

◇イースターから一週間経っているのですが、「弟子たちはまた家の中におり・・・戸にはみな鍵をかけて」いたというのです。復活の主にすでに会った他の弟子たちも再び不信に覆われてしまったのでしょうか。このような弟子たちに主イエスは「来て真ん中に立」ってくださり、これで三度目ですが、はっきり宣言してくださいました、「あなたがたに平和があるように」と。十字架によって私たちの死を負ってくださり、そして私たちを新しい命に生きる者としてくださった復活の主が、改めて弟子たちの前に現れ臨んでくださいました。

◇復活の主は、トマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」(27節)と言われ、御自身の体をお示しになりました。

◇十字架の傷を負った主イエスが生きておられることを事実として見、この主イエスと決定的な出会いを経験した最初の弟子たちがいなくなった今日も、主が甦られたことを信じる信仰は廃れるのではなく、益々多くの人々に希望の信仰として受け入れられています。復活の主イエスがまさに現臨され、弟子たちを平安に包んでくださったこの力によって私たちは復活の主イエスを見なくても、希望に生きることができるのです。主は私たちに仰っています。「見ずして信ずる者は幸福なり」と。

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