礼拝説教

2017/03/19

「新しい契約に生きる」- 受難節第3主日礼拝 -

マタイによる福音書7:7〜12
牧師 大宮  溥



◇年度の変わり目に「求めよ、探せ、門をたたけ」との御言葉は、われわれの姿勢を正すように促す。この御言葉は元来、祈りを励まし、祈りが必ず聞き届けられることを約束する言葉である。「山上の説教」で、祈りが見せかけになることが戒められ「祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの天の父に祈りなさい」と命じられ、また「あなた方の父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と教えられた。そうすると祈る必要がなくなりはしないか。主はこのような疑問を断ち切り、祈りを励ます。

◇夏目漱石の『門』は、門をたたいても開けてもらえない苦悩を綴っているが、主イエスはこれを「開かれる」。人間の祈りをご自分の祈りとされるからである。

◇フォーサイスの『祈りのこころ』で、われわれの祈りに対して、父なる神はそれを聞き届ける形で答えてくださると共に、それを聞き届けない形で答えられる場合もあると述べている。イエス・キリストはゲッセマネの祈りで、苦き杯を取り去ってくださいと祈ったが、祈り終えたとき、神の沈黙を答えとして受け取り、従容としてそれに従われた。このように、父なる神は我々の祈りに必ず答えてくださる。また、神はわれわれの求めるものを与えてくださるだけでなく、神ご自身を与えてくださる。さらに、祈りは、われわれが祈る前に、神がわれわれに呼び掛けてくださり、われわれはこれに応えて祈るのである。

◇12節は「山上の説教」の結びで「黄金律」である。主イエスは「求めよ」との父なる神との縦の関係の後に、ここで「人にしてもらいたいと思うことは何でも、人にしなさい」と教えられている。米国の初期の百貨店の経営者ジョン・ワナメーカーはこれを社訓としたし、明治学院はここから建学の精神をDo for Othersとした。「仕えるリーダー」の道でもある。キリスト教会はイエス・キリストのとりなしによって神と和解させられた新約の神の民として、父なる神との間に新しい契約を結び、「敬神愛人」の道をたどるのである。

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