礼拝説教

2016/01/08

「走り寄る父」

カによる福音書15:11〜32
伝道師 江原有輝子



◇イエス様の話を聞こうと集まった罪人たちを見てファリサイ派の人々や律法学者たちが不平を言い、イエス様は「失われたものが見出される」3つのたとえ話をされた。このたとえは「失われた息子のたとえ」というほうがふさわしい。

◇弟息子は父から自分の分の財産をもらって金に換え、一人で生きようと遠い国へ旅立った。父の家を足蹴にして去った時弟の人生は転落し始めた。ついにどん底に落ちた時弟ははっと我に返り、父の所に帰ればよいと気付いた。

◇父は毎日家の前で息子の帰りを待っていた。「憐れに思う」という言葉は「はらわたが痛む」という意味で、新約聖書のこの言葉の主語は常に主イエスである。主は打ちひしがれた姿の人々を見てはらわたが痛み、人々への憐れみが肉体の痛みとなるほどに愛された。父も息子の姿を見てはらわたが痛み、一目散に息子に走り寄った。父は悔い改めた弟を、雇い人ではなく息子としてとして受け入れ、祝宴が始まった。

◇兄息子は畑から戻ってことの次第を知ると、怒って家に入らない。父が出て来てなだめるが兄は強く抗議する。この兄もまた失われた息子である。父と共にいることが喜びではないから兄はいなくなった弟が戻ったことを喜べない。ファリサイ派の人々や律法学者は兄なので、このたとえは兄の話で終わる。これからの行いは一人一人に委ねられているので、彼らが祝宴に加わったかどうかは語られていない。

◇父から遠く離れて自分の力で生きようとした時私たちは死んでいた。ここにしか命がないと信じて帰ってくると、天の父は憐れに思って走り寄り、私を抱きしめてくださった。が、その後教会生活に慣れて父のそばにいる恵みが喜びでなくなり、かつての自分のような人が来ると眉をひそめる。兄である私たちも父のもとに立ち帰って抱きしめられる必要がある。私たちの生きる場所はここにしかない。新しい年も、私たちに走り寄って抱きしめてくださる父の腕の中で生きていく者となりたい。

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