礼拝説教

2016/9/25ー聖霊降臨節第20主日礼拝ー

「聖霊の宮としての私たち」

第一コリント書6:12〜20
協力牧師 中野 実先生



◇キリスト教は、イエス・キリストを通して成し遂げられた救いによってすでに世界のすべてが変えられている、と信じる宗教である。そう信じることは、キリストの救いが私のすべてを決定づけており、私たち自身がその救いを体現する大切な器、「聖霊が宿ってくださる宮」とされていることを信じることである。

◇しかし私のすべてはもちろん、世界のすべてのものもまたイエス・キリストのご支配のもとにある、と信じることには、必ずしんどさが付きまとう。すべてが神のものと信じることは、自分の勝手にできるものは何一つ残されていないことを意味する。神と無関係な部分を残しておけば、人生を気軽に歩めるかもしれない。神と無関係な領域を残しておけば、この世の価値観とぶつからなくて済むかもしれない。しかしキリスト者はそうはいかない。

◇ある聖書学者によれば、ローマ帝国がキリスト教徒を迫害したのは、彼らが「イエスは私の心の主」と告白したからではなく、「イエスはすべての主」と告白したからである。そう告白することは、絶対的なローマ皇帝の権威を否定し、イエスこそがそれに勝る主であると主張することを意味した。イエスこそがすべての主であり、私のすべてはもちろん、世界のすべてがこの方にかかっている。キリスト者はそう信じるが故に、もはや死も、この世の権力も恐れることなく、大胆に歩んだ。また、すべてが神のものであるが故に、すべてを大切にし、互いに愛し合う堅固な共同体を築き上げていった。キリスト教は多くの人々によって魅力的であると同時に、権力者からすれば危険な存在でもあった。

◇私たちもそのような信仰を継承している者たちである。私たち一人一人はイエス・キリストの恵みによって、かけがえのない、聖霊の宮とされ、この世界のただ中にキリストの体である教会を形成する大切な器とされている。その光栄と使命をもう一度しっかり心に刻みつけたい。

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