礼拝説教

2016/7/17

「危機線上のイエス」

ヨハネによる福音書6:16〜21
牧師 大宮 溥



◇主イエスは「神の国」の到来を告げ、その徴として祝宴を設けられた。人々がイエスの働きを政治的にとらえて、彼を王にしようとしたとき、主はそれを拒み、弟子たちを隔離し、ご自分は祈るために山に退かれた。

◇弟子たちはガリラヤ湖畔に下り、祈りのために山に行かれた主を待ったが、夕刻になったので、航路の安全を願って、自分たちだけで舟に乗りカファルナウムに行こうとした。

◇ところが湖の真ん中で「強い風が吹いて湖が荒れ始めた」。詩編107のように、弟子たちは高波に「天に上り、深淵に下り、苦難に魂は溶け、酔った人のようによろめき、揺らぎ、どのような知恵も呑み込まれてしまった」(詩編107:25〜27節)。ここに人生の危機が示されている。

◇そのとき主イエスが湖上を歩いて舟に近づき「わたしだ。恐れることはない」と語られた。主イエスが神として顕現されたのである(ヨブ記9:8、詩編70:20)。「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた」。ここに人生の危機を突破させる主の恵みがある(讃美歌21:450)。イエス・キリストは十字架の死によって、われわれ人間の滅びを担い、永遠の生命を与えてくださるのである。

◇湖上を歩まれるキリストの言い伝えはマタイ福音書にもあるが、そこではペトロが、波の上を歩いて主のところに行こうとして、波を見て恐れ、沈み始めたことが記されている。危機線上のイエスに出会った者は、自分もまた信仰の冒険を要請される。「(会堂建築について困難はあるが)信仰によりて猛進するならば、主は必ず助け玉わるべく候。ペテロが浪の上を歩みし時の如く逆巻く波を見ぬ様にせねばならず候。下を見れば恐れと憂いの心生ずれど、上を見れば主我を助け玉う。会堂建築の事なども矢張り上を見て主にのみ頼らねばならず候。かくすれば我にも奮発心の出るものにて候」(新潟東中通教会牧師井口弥寿男、明治40年2月19日)。

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