礼拝説教
2016/5/15

「聖霊を受けよ」

ヨハネによる福音書20:19〜23
協力牧師 中野  実



◇ヨハネ福音書によれば、聖霊が弟子たちに注がれたのは、彼らが試練と危機の 中で不安に捕えられ、心を閉ざしていた時であった。週の初めの日の夕 方、敵意 を向ける同胞のユダヤ人たちを恐れて、家の戸にしっかり鍵をかけていた。

◇しかし、不安と恐怖に捕らわれている弟子たちの中へ入って来られるのが復活 のイエスである。しかも堅く閉ざされている戸など何の障害にもならな い仕方で 入って来られる。私たちが「どうにもならない」と思い込んでいる事柄も、堅く閉 ざしている私たちの心もイエスにとって何の障害でもない。

◇復活のイエスは、「あなたがたに平和があるように」と告げ、手とわき腹をお見せ になった。手に釘あと、わき腹には槍を突き刺された痕があった。 復活のイエ スは、十字架の主である。十字架と復活の主は、弟子たちに息を吹きかけ、「聖霊 を受けよ」と言われる。聖霊は、心を堅く閉ざしている私 たちの中に入って来 て、そこに住み、私たちを内側から新しく創りかえる神の霊である。頑なな私た ちが神に出会えるとすれば、それは私たちの内に 入って来られる聖霊の働きに よる。

◇聖霊は私たちの中に入って来て、「自分」という小さな殻から外へ出て行けるよ う私たちを創りかえる。自分が見ている現実が本当の現実だ、と私た ちは勘違い している。自分にこだわり、自分を絶対化して、自らを神としてしまう。しか し、そのような自分の殻から私たちを解き放ち、新しい霊的な 見方で自分自身 を、さらにまわりの世界を見直せるように変えてくださる。自分自身から外へ出 て、外の世界を見直し、そこに生きる他者と共に歩み始 める力を、聖霊は与え てくださる。

◇神ご自身が、御自分から外へ出て、自らを低くし、無きに等しい、神なき私た ちの惨めさ、苦しみのただ中に入って来てくださった方である。同様 に、聖霊 によって歩む私たちもまた、自分自身の外に出て、隣人と共に歩むのである。
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