礼拝説教

2016/2/7 −降誕節第7主日−

「癒しの泉」

ヨハネによる福音書5:1〜18
牧師 大宮  溥


◇ヨハネ福音書はイエス・キリストの地上における活動を、「教え」と「力ある 働き」として描いている。「教え」としては、「真理」を教えて人間を 自由に する(8:31)。それに対して「働き」としては、人間を生かし、命を与え、癒す 者として示している。

◇イエス・キリストは、神の許に神の民が集う祭の日に、まことの羊飼いとして 羊の群れのところに出て行かれた。「羊の門」に連なった「べトザタの 池」は、 これまで「ベテスダの池」と訳されてきた池の原初の名である。

◇この池のほとりには多くの病人が集まっていた。後に付加された説明から、こ の池は「間歇泉」で、一定に期間を置いて湖底から薬効のある鉱物質を 含んだ 湯か水が涌いていたと思われる。そこに38年も癒されないままに横たわっていた 人物がいた。38年はイスラエルの荒れ野の旅の年月である。 主イエスは、新約 のモーセとして民を導かれる。

◇主イエスはこの男に「良くなりたいか」と訊ねている。これは、癒しを受ける ためには、神の力を自分の内に受け入れて、自分を神に差し出す「信 仰」が求 められているのである。しかしこの男は、このような神の力でなく、人間の助力 者を求めた。主イエスは、そのような準備のない人間にも、あ えてご自分の方 から乗り込んで、彼を起き上がらせた。神の先行の恩寵である。

◇「(私には)人がいないのです」と孤立無援をかこつ男に対してイエス・キリス トは「人なき人への人」となられた。かつて日本における幼児教育の 指導者とし て献身されたキュックリッヒ宣教師は、若き日に婚約者の戦死によって「人なき 人」となった。ある夕の祈祷会で、べトザタの池の病人の物 語に触れ、自分の 心の深みに訪れてくださる生ける慰め主に出会われた。そして当時キリスト教保 育教育の指導者を求めていた日本に、「人なき人への 人」として来る決意をさ れた。
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