礼拝説教

2015/5/24 -聖霊降臨日 礼拝- 

「神の言葉を聞く時」

使徒言行録2章1~13節
主任牧師  大村  栄

◇ペンテコステの日に、「4:一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。離散のユダヤ人たちは、「8:どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」と驚き、続いて広範囲にわたる彼らの出身地が列記される。 

◇この奇跡の意味を合理的に説明することは出来ない。重要なのは、弟子たちが「11:神の偉大な業」を語るのを聞いた人々が、それを積極的に「聞こう」としたという点だ。「どうして彼らは語ることが出来るのか」と、語る者の能力を問うのではなく、「8:どうしてわたしたちは、…聞くのだろうか」と、聞く自分たちを主語にして語っていることに注目させられる。 

◇弟子たちの言葉が自ずから神の言葉に「聞こえた」のではない。人々は聞こうとして「聞いた」のだ。「聞こえる」と「聞く」とは違う。 

今年度の標語「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます」。ここで言う「見える」ものはやがて消え行くもの。「目を注ぐ=見る」べきものはそれではない。「見える」と「見る」が違うように、「聞こえる」と「聞く」も違う。神の言葉が聞こえてくるのを待っていては、神の言葉はいつまでも聞こえない。主体的に、真剣に聞く時に、初めて魂に届く言葉なのだ。(Iテサロニケ2:13を参照)。 

◇雨が大地を潤すごとく、神の言葉は私たちの心を潤し、魂を養う。そのために神が与えて下さる言葉だ。しかし聞く心を持たないならば、それはむなしく消えていく(イザヤ書55:10-11参照)。種蒔きのたとえを語られた主イエスは最後に「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。神の言葉を空しく戻らせないために、私たちが真剣に聞くことが求められる。 

◇誰が語るからではなく、分かりやすいからでもなく、様々に降り注ぐ神の言葉を真剣に聞き取り、それによって潤され、芽を出し、実を実らせてほしい。パウロによるエフェソ教会への決別説教(使徒言行録20:32)を読んで終わる。 

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