礼拝説教


2015/4/12 −復活節第2主日 礼拝−

「わたしたちの心は燃えていたではないか」

ルカによる福音書24:13〜35
副牧師 加藤真衣子

 
◇精神医学者フランクルは著書『夜と霧』の中で、自らも収容されたアウシュヴィッツ収容所で、多くの者は無感動無関心の「文化的な冬眠」状態におちいるが、「内面的な拠り所」を持っていた者たちは、たとえ肉体的には弱くとも最後まで人間らしさを失わず、それによって肉体も持ちこたえることが出来たと記している。「内面的な拠り所を持たなくなった人間のみが崩壊せしめられた」というのだ。

◇「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった(28節)。」 主は私たちが「これが結果だ」としたよりも、なおその先の何かをご覧になっておられる。主に手を引かれて先へ行けば分かることがある。死を超えて先に、神とともに、愛する人たちとともにある場所がある。けれども目に見えるところに答えをつくりたがる私たちは「今はまだ無理です。もうちょっとここに、悲しみの夜に一緒にいてください」と主にお願いする時がある。そんな私たちを置いて、主はひとりで先へ行かれる方ではない。悲しみに立ち止まってしまっている私たちと共に、どこまでも一緒に歩んでくださる方、それが復活の主イエスだ。

◇私たちはまだ人生の半分しか見ていない。人生にはまだ、いまの地点よりもまだ先の、半分がある。死を超えて、もう半分ある。私たちにとって終わりと見える場所が、神の大いなる始まりの場所なのだ。私たちが死んだもののように生きようとするとき、主は死に勝利した方として共におられる。この事実こそが私たちの心を燃やす。わたしたちのエマオは終わりの場所ではない。主の復活の力を知り、新しく生き始める出発の場所なのだ。

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