礼拝説教


2015/1/25 降誕節第5主日礼拝

「父なる神とわれら」 

マタイによる福音書6:5〜15
名誉牧師 大宮  溥

 
◇主イエスは「隠れたところで祈れ」と教えられた。これは「深みの次元」(パウル・ティリッヒ)である。 現代人は「長さの次元」「拡がりの次元」に熱中するが、「深みの次元」には無関心であり、人生が薄っぺらになっている。 これは「霊的次元」である。主イエスはこの次元にわれわれを導こうとして、主の祈りを教えられた。

◇「天におられるわたしたちの父よ」という冒頭の呼びかけで、「天」とは、マタイが神名を呼ぶのを避けて用いたもので、人間ではなく神が父であることを訴えている。ここで神を父と呼べるのは、厳密には主イエスだけである。われわれにとって神はまず「造り主」であり、我々と世界を自由に処理できるお方である。主イエスは「子なる神」であり、この方が受肉されて、「まことの神」が「まことの人」となり、われわれと連帯してくださり、罪を贖ってくださったので、われわれも「神の子」とされるのである。

◇「御名が崇められますように」という第1の祈りで、「名」はその持ち主を全体的に指し示している。神はわれわれの呼ぶ声に応えて、一対一で向き合ってくださる。「崇める」とは「聖とする」という意味で、「聖」とは遮断、分離を意味し、神の隔絶性、尊厳性、超越性を表している。「御名を崇める」とは、神が神以外の何ものによっても支配されず、汚されず、輝き出ることである。この祈りを唱えるとき、命と力と愛の神の光が輝き出、世界を照らし、わたしを照らすのである。

◇第2次大戦中にケルンの防空壕の中で過ごした人が、壕の壁に「わたしは太陽を信じます、たとえ、太陽が輝いていなくても。わたしは愛を信じます、たとえ、愛が隠れていても。わたしは神を信じます、たとえ、神が沈黙しておられても」と書きつけている。神は無と闇から輝き出てわれわれを生かす。
(C) Asagaya Church, United Church of Christ in Japan, asagaya-church.com