礼拝説教


2014/12/14 待降節第3主日礼拝

「愛の翻り」

ホセア書11:1~11
棚村 惠子先生(東京女子大学准教授)

 
◇28歳の息子の家庭内暴力に悩んだ挙句に万策尽き果て、寝ている息子の胸を刺して殺害した65歳の父親に、先月執行猶予つきの懲役刑が東京地裁で言い渡された。父は親子関係が良かった昔の想い出を公判中に何度も口にしたそうだ。荒れる息子を救えないまま父が子を殺すという悲劇的な結末を迎えたこの事件は、他人事ではない。愛ゆえに私たちは悶々とする。

◇ホセア書によると父なる神もまた、ご自分の民イスラエルの反抗に心を痛め、愛ゆえに煩悶された。預言者ホセアは紀元前8世紀に北イスラエル王国の預言者となるよう召された。彼は淫行の女ゴメルを娶り愛するように神に命じられ、子供も三人生まれた。ホセアはその苦しくも生々しい家庭体験を通して、背く民への神の思いと愛の深さを知った。献身とは苦しい経験を通して神のみ心を知り、愛を証しすることだ。

◇11章冒頭では父親が幼少期の息子に示す深い情愛の比喩によってイスラエルを愛した神の姿が描かれる。そしてバアル信仰に傾く民の背きに対して厳しい裁きが告げられる。紀元前722年、北王国は預言通りに滅ぼされた。

◇しかし裁きによって神の心は傷む。8~9節では憐れみに胸を焼く神の激しい心の動きが表現される。イスラエルを見捨てられない神は、終に救いへと翻る。それは、頑固なイスラエルが立ち帰ったからではなく、神ご自身が「神であって人ではない」ゆえだ。神は「あなたがたのうちの聖なるもの」すなわちインマヌエルとなる驚くべき決心をなさった。怒りではなく憐れみが勝つ。

◇クリスマスは、その愛の翻りの現われである。キリストは神の身分に固執されず僕となって、十字架で私達の罪を贖われた。(フィリピ2:6)ここに、神としての沽券をかなぐり捨てても人の立ち帰りを願う神の愛がある。愛とは感情ではなく救おうとする強い決意だ。

◇最終段落では神の民の捕囚からの帰還が預言される。民の帰還は、愛の翻りとしての降誕があったからこそ可能となる。先行する神の愛に感謝して私達も互いに愛する者となるべく教会の礼拝へと立ち帰るクリスマスにしたい。

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