礼拝説教


2014/4/13  棕櫚の主日

「ゲツセマネの祈り」

マルコ福音書14:32~42
主任牧師 大村  栄

 
◇主イエスは「最期の晩餐」の後にゲツセマネの園で祈りを捧げた。「34:わたしは死ぬばかりに悲しい」。「35:できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」。十字架の死という運命を、神の子でも素直に受け入れた訳ではない。

◇「36:アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」。我々も神に何でも願っていい。フィリピ書4:6「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」。最初から神に期待しないで諦めるのは不信仰だ。

◇しかし自分の求める通りになることが最善ではない。フィリピ書は続けて「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」。

◇主イエスは「36:この杯をわたしから取りのけてください」に続けて「36:しかし、わたしの願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と言われた。この「しかし、」の信仰に達するために、神の説得や励ましがあったわけではない。イエスは不安と孤独に悩みつつ、祈りの中で自ら心を決めていかれたのだ。理解するより信じることが真実な祈りの中で与えられていく。

◇ルカ福音書では「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血のしたたるのように地面に落ちた」(22:44)とある程に激しい祈りだった。私たちは主イエスが共に苦しんで下さっているという事実を通してのみ、「しかし、御心に適うことが…」に達することが出来る。

◇あこや貝は口をこじ開けて石を飲まされる。この異物の痛さに流す涙に包まれて、石が真珠になると言う。私たちにも「これさえなければ」と涙する異物、あるいは重荷がある。その時「この杯(重荷)をわたしから取りのけてください。しかし…」と祈られた主イエスがそばにいて下さり、私たちの涙が輝きに変えられるのだ。

◇「41:もうこれでいい」、弟子たちは不甲斐なくても、神に任せることができたから。「42:立て、さあ行こう」。ここに本当の勇気がある。

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