礼拝説教


2013/8/25 聖霊降臨節第15主日礼拝

「未来を信じて」

マタイ福音書13:24~43

 

牧師 大村 栄


◇「24:天の国は次のようにたとえられる」。「天の国」は「神の国」と等しい。地上でも実現する神の支配に委ねる平安。これを宣べ伝えるのが「福音の種まき」としての伝道だ。

◇しかしその行く手を阻む「敵」が存在する。それは「39:毒麦を蒔」く「悪魔」。僕たちは主人に「28:行って(毒麦を)抜き集めてきましょうか」と進言するが、主人は「29:いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。30:刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と、焦るべきでないと言う。

◇「麦まで一緒に抜くかもしれない」というのは、若い内の麦は識別しにくいから抜くなということ。私たちに善悪の区別は容易には付けられない。善悪のレッテル張りをするのは、人間が神に代わろうとする傲慢になりかねない。

◇成長してくると毒麦は識別できるが、その頃には根が絡み合っていて一緒に抜けてしまうから抜くなと言う。今抜かなくても最後には必ず取り除かれる。「39:刈り入れは世の終わり」。

◇ただし人間は植物と違って変化し得る。いま毒と思われる存在でも、最後には良い麦に変わるかも知れない。今しか見ないで将来を断定してはならない。「30:刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」は、そういうキリストの愛と、神の忍耐と寛容を示している。

◇毒麦があると思いながら、それを抜かずにいるのはかなりの忍耐を伴うが、私たちの忍耐に先立って神の忍耐と、キリストの執り成しがある。私たちは忍耐し、待っていると思っているが、それ以前に、私たちが神の忍耐の中に赦され、待たれているのだ。

◇31節以下には「からし種とパン種のたとえ」もある。どちらも極めて小さなものだが、それがやがて大きなものに変わっていく。大河の一滴のような私たちだけれど、この先に大海に似た神の大きなふところに迎え入れられる時を信じ、「未来を信じて」、この大きな流れの中で果たすべき役目を果たしつつ生きていこう。
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