礼拝説教


2013/7/21 聖霊降臨節第10主日礼拝

「憐れみの福音」

ローマの信徒への手紙9:19~29

 

主任牧師 大村 栄


◇神の民に選ばれたイスラエルは、キリストを拒絶して十字架につけた。これは神の選びの失敗だったのか。著者パウロは、「自由な選びによる神の計画」(9:12)という言い方で、神の選びは我々の関与する事柄ではないと語る。

◇そのように、すべてが神の意志によって定められているのだとしたら、私たちの関与する余地はないではないか。「19:だれが神の御心に逆らうことができようか」と開き直りたくなる。これに対する反論が続いて語られる。「20:人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか」。

◇神は創造主、私たちは被造物。両者の間には越えてはならない一線である。神を陶器師にたとえて語る。「21:焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか」。花瓶も食器も便器でさえ、それぞれ必要があって造られる。しかし元は、同じ土くれから造られた「土の器」なのである。

◇それら「土の器」を、神はご自分の自由な意志によって選び、それぞれに使命を託された。もし私たちの内に選びの基準があるとしたら、人生は緊張の連続だったろう。どんな小さな失敗も赦されず、厳格に評価される。しかし最も厳格である神が、厳格な評価をやめて、「自由な選び」を実行されるから、そこに私たちの赦される可能性があり、生きていく希望がある。

◇預言者ホセアは、神の命令で「淫行の妻」ゴメルをめとらされる。ホセアはその体験を通して、神を裏切り、他の神々を慕うイスラエルを赦し、受け入れる「神の憐れみ」の深さを、痛いほど感じさせられたことだろう。

◇ひとり子を十字架に死なせるまでして、神に背く民を「わたしの民」と呼んで下さり、「怒りの器(対象)」であった者を、「憐れみの器」として招いて下さる神の愛は、キリストの生涯において最終的に実行された。

◇私たちは「土の器」(Ⅱコリ4:7~)だが、器の中に納めた神の「憐れみの福音」を、周囲に溢れさせるものでありたい。
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