礼拝説教


2013/6/30 聖霊降臨節第7主日礼拝

「主と共に喜ぶ」

マタイ福音書25:14~30

 

 坂下道朗先生(阿佐谷東教会)


◇このたとえは「終末がやってくる」という緊迫した状況の中で語られている。主イエスが弟子たちに世の終わりの到来を告げた時、彼らはどう対処したらよいのかわからなかった。主イエスは弟子たちにとるべき態度を語られる。

◇学校の教室の時計は、生徒のために設置してある。試験の時間配分などに必要だからだ。一方、教師は時計を背にしており、普通は時計が目に入らない。でも終わりが近づいていることを察することができる。生徒が落ち着きを失い、鉛筆を片付け始めたり、教科書を閉じたりするのがその時だ。けれども教師も生徒も、チャイムがなるまで集中しなければならない。

◇弟子たる者(今の教会も主の弟子である!)漫然と終末を待っているわけにはいかない。たとえ終わりが来るとしても、使命を果たす必要がある。ルターは「たとえ明日、世の終わりが来ようとも、今日、私はりんごの木を植える」と言った。神様だけがその「時」をご存じなのだから、成すべきことにしっかりと取り組もう。

◇タラントンのたとえに登場する3人の僕が主人から財産を預かる目的は、彼らが富むためではない。主人が豊かになるために働くのだ。2人の「忠実な良い僕」はそれぞれ預かったものを倍にして主人に返す。主人は言う。「お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。彼らは報酬を期待していた訳ではない。僕として忠実であり続けようとしただけである

◇第3の僕は、自分の主人のことを客観的に観察し、失敗しないようにと預かったらタラントンを土の中に埋めておいた。そうすることによって最低限自分の使命を果たし、主人からの合格点を得ようとした。主人の財産を殖やすためではなく、自分が主人の前に「良い」者であろうとした。結果は「悪い」僕となった。

◇主人である神様は私たちを喜びに招かれる。「わたしと一緒に喜んでくれ」と。私たちをクビにするためではなく、喜びを分かち合えるようにして下さる。預かったものを精一杯に用いて増えたことを主人が喜び、その喜びが僕の喜びになる、それが神様と私たちとの関係である。
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