礼拝説教


2013/5/26 三位一体主日礼拝説教

「重荷は軽くされ」

主任牧師 大村   栄

マタイ福音書11:25~30

 
◇「29:わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」。 「軛」とは、2頭の家畜の首に渡して固定する横木で、そこに鋤や車を着けて引かせる。旧約聖書ではしばしば「重荷」の象徴として用いられた。だが「重荷」と「軛」は違う。「重荷」は自分一人で負うが「軛」は2頭の家畜のように共に負う者がいる。それは「29:わたしの軛を負え」と言われる主イエスが共に担って下さる。主は私たちと共に軛を負うために、一人で十字架の重荷を負って下さったのだ。

◇「軛を負う」ということを教会学校の子供たちに説明する時、二人が肩を組んで歩く姿勢を見せる。イエス様と肩を組んで生きるなら、転びそうな時も支えて頂いて、私たちは真の「29:安らぎを得」るのである。このような生き方をする者になれと、主は「28:わたしのもとに来なさい」と招かれる。この主の差し出して下さる招きの手に身を委ねることが、「キリストの軛」を負うということである。

◇それは、知的な理解や説明を超えた、人格的な信頼と決断の出来事である。主イエスは神を讃えて言われた、「25:天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」。知恵や賢さが不要なのではない。ただ知恵や賢さによらず、「幼子のような」信頼により、私たちはキリストと共に生きる者とされて、真の安らぎを得ることが出来る。

◇「幼子のような者」は複数形で語られる。これは、教会の群を指すと言えよう。私たち教会に連なる者たちは、キリストにおいて選ばれ、キリストの軛を負って生きる者たちであり、教会はこういう者たちの群なのだ。

◇私たちはこのキリストの軛を負うことによって、他の重荷から解放される。私たちの最大の重荷は死である。私たちはキリストの軛を負って生きるなら、復活によって死に勝利された主イエスによって、死の呪いからも解き放たれ、永遠の生命の望みに生きる者とされる。

◇いつも主イエス・キリストと共に生き、キリストの軛を負って生きる者でありたい。

(C) Asagaya Church, United Church of Christ in Japan, asagaya-church.com