礼拝説教


2013/5/12 <復活節第7主日礼拝>

「泣き声を聞かれる神」

創世記21:1~21


◇今日は母の日。2人の母が登場。一人はアブラハムの妻であるサラ。もう一人はサラの奴隷だったハガル。彼らの出来事は創世記16章に詳しく記されている。やがて年老いたサラが妊娠しイサクが生まれた。サラはアブラハムに母子の追放を訴える。苦しむアブラハムに神はおっしゃる。「悩んではならない。私はイシュマエルのことも祝福する。(私訳)」本来は神の約束を信じ切れずに、自分たちの気持ちで先走った彼らこそ失敗の責任をとらねばならない。ところが神は人間の理不尽な言動や失敗、一切の問題を引き受けられる。追放させるのではなく、彼らを救うために出て行かせるのだ。

◇荒れ野をさまようハガルとイシュマエル。荒れ野は母子二人にとってあまりにも広い。やがて水が尽き、母は子どもを1本の灌木の下に寝かせ、座った。母は声をあげて泣いた。

◇17節「神は子どもの泣き声を聞かれた。」声をあげて泣いたのはハガルだった。けれど神が聞かれたのはイシュマエルの泣き声だった。愛するわが子が死にゆこうとするとき「どうか子どもを助けてほしい」という母の想いを、神はご存じいてくださる。暑く乾ききった荒れ野で、のどが渇いて力尽きて倒れ伏した子どもが、どんな泣き声を発したか。嗚咽か、あるいは声も出なかったかもしれない。神は最も弱くなった者の、声にならない泣き声を聴かれ、最善の道へととりなして下さるのだ。絶望してはならない。

◇19節「神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた」井戸は最初からそこにあったのだろう。行き詰って絶望した母子にはそれが見えなかった。神が母子に介入なさり母の目を開き、命の水を示して下さった。

◇絶望にある母と、絶望にある子どもだ・ッで対座していたところに、上からの希望を携えて神が介入なさる。私たちも神の恵みの介入を受けて、相手との間に神を置き、キリストを介して相手を見たい。そして神と対座する礼拝で、命の水の湧き出る井戸を発見し続けていこう。全ての母たち、すでに天にいる母たち、先に愛する我が子を天に送った母たちの上に、天来の祝福が豊かならんことを祈りつつ。

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