礼拝説教


2013/4/14 <復活節第3主日礼拝>

「主の言葉は真実です」

列王記上17:8~24

牧師 大村 栄


◇預言者エリヤは、アハブ王の迫害を逃れてサレプタの町に住むやもめの家に身を寄せる。かつては裕福だったらしいそのやもめは、今は貧しく、わずかな食料を息子と分け合って食べた後は、死ぬのを待つばかりという状況だった。エリヤはその窮状を解決し、母子は生き延びた。

◇しかしその後、彼女の息子が病気にかかって死ぬ。エリヤとの出会いは、母に一端はいのちと希望を与えたが、大切な一人息子の死により、彼女は前以上の絶望に陥れられた。「18:神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか」。こんなことなら「神の人」とやらに出会わない方が良かったと思ったに違いない。

◇エリヤはその子を自分の寝台に寝かせ、「21:子供の上に三度身を重ね」て真剣に神に祈った。すると「22:子供は生き返った」。こうして神はご自身が、生きて働く神であることを証しされたわけだが、やもめにとっては「神の人」に翻弄されるような体験だったと言わざるを得ない。

◇「流浪の教会」と呼ばれる福島第一聖書バプテスト教会の佐藤彰牧師は、教区全体研修会(3/20)で語った。「旅の途中で、4人のお葬式と9人の洗礼式を、泣きながら行いました。私たちは分からなくなってきました。私たちは悲しいのか、うれしいのか」。しかしまた「震災以後、聖書の言葉がそれ以前とはまるで違ったもののように感じられた」とも言われる。「読んだまま、『その通りなのだ』と受けとめることが出来るようになりました」。

◇サレプタのやもめは、エリヤを通して神に弄ばれるような経験をした。しかし彼女は最後にエリヤに言っている、「24:今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です」。この「分かりました」は知的な理解ではない。佐藤彰牧師が聖書の言葉を「『その通りなのだ』と受けとめることが出来るようになりました」と言われるごとく、「悲しいのか、うれしいのか」の感情を超えて、すべてが神の支配の下にあるという信頼と信仰が、「主の言葉は真実です」のひと言に表れたのである。

◇「この世の禍幸(まがさち)いかにもあれ、栄の冠は十字架にあり」(讃美歌331)との確信に立って主の言葉の真実を生きるものでありたい。
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