礼拝説教


2013/3/31 <復活祭礼拝>

「捧げて生きる」

ローマの信徒への手紙6:1~14

牧師 大村 栄


◇本日はN兄の洗礼式、昨日はK兄の葬儀と、洗礼と逝去が続き、信仰者の生涯のあり方を思わされる。今日のテキストでパウロは、洗礼と死がキリストにおいて密接な関係にあると言う。「4:わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものになりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」。

◇バプテスマを受けるのは、キリストと共に古い自分に死に、復活の主と共に新しい命を生きること。しかし、死ぬとは肉体的に死ぬことではない。「13:自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい」。キリストと共に死ぬとは、自分を神に捧げることである。

◇旧約聖書では、灰になるほど焼き尽くして、人の手には残さないのが神への最上の捧げものだった。イスラエルでは戦争も、敵を神に捧げつくす宗教行為だった(聖絶)。ヨシュア記7章によると、アイの町を攻めて惨敗したのは、アカンという人が戦利品の中から欲しいものを盗んだためだった。彼とその一家とを処刑し、再びアイを攻めたら、今度は大勝利した。

◇実際はイスラエルの歴史において、そんな信仰の徹底がなされたとは言えない。他部族の良い物を取り入れて共存した結果、異教的偶像礼拝の慣習などが入り込み、それによって後に国が亡ぶこととなる。そういう信仰の不徹底は私たちの実態でもあり、そのために悩む。

◇しかしキリストは徹底して、33才と言われる人生と生命を神に捧げ尽くした。その結果神はキリストを「高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった」(フィリピ2:9)。このすべてを捧げ尽くしたキリストの復活が、私たちの希望である。「5:もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」。自分自身を神に捧げ、永遠のいのちを生きよう。

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