礼拝説教


2013/3/3 <受難節第3主日>

「十字架に神を見る」

マルコ福音書15:33~41

副牧師 加藤真衣子


◇主は私たちと同じ肉体をとり、衰えや痛みや渇きの中で死なれていった。ただし主の本当の苦しみは神に見捨てられるということにある。主の十字架上の叫びを聞いてある者は勝手に解釈し、ある者は嘲笑したと聖書は記す。名はあえて記さない。なぜなら私の名前がそこに入るからだ。十字架の主を嘲笑する人々は35節「そばに居合わせた人々」だった。十字架のそばに居合わせたのに、まことの救いに無頓着な人々の姿。それと対照的な「イエスの方を向いてそばに立っていた」ローマの百人隊長。彼は十字架の主と相対して主の死を見つめ、息絶えた主イエスに「神の子」を見た。

◇神は御自身のひとり子の上に我々の罪をすべて負わせ、見捨てて死なせることで罪を帳消しにされた。主は神に見捨てられるという苦難をも引き受け、その苦難を終わらせて下さった。罪びとの死を死んだ主がおられる。だから我々はもう二度と罪人として死ぬことはない。

◇主がその息を引き取られたとき神殿の幕が裂けた。かつての神殿には神と人を区別している仕切りの垂れ幕があった。大祭司だけが年一回幕の中に入ることを許され人々の罪の贖いをした。それよって人々は罪を拭い去られた。神は罪を完全に赦すために動物の命にかわって御自分のひとり子の命を与えてくださった。主の十字架における死が、私たち全ての者の罪を贖う出来事だった。神と人とを区切っている仕切りは、この時なくなったのだ。

◇私たちの地上の旅路は苦難多き荒れ野だ。けれど「わが神」と神の方を向いて問いかけたら神殿の幕はすでに裂けていることがわかる。いつか苦しみの答えがわかる。ひとり子を与えるほどに私たちを救いたいとなさる神は、生きておられる。あらゆる時代、あらゆる場所で苦しみにうちひしがれ、神から捨てられたと思ってしまうような現実を見る。そこにこそ、行って知らせよう。あの十字架の上に神はおられる。

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