礼拝説教


2013/2/17 <受難節第1主日>

「最大の誘惑」

マタイ福音書4:1~11

牧師 大村 栄


◇キリストは公生涯の始めに40日間荒れ野でサタンの誘惑に遭われた。第一の誘惑は「3:神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。これに対して主は、「4:人はパンだけで生きるものではない」。これは旧約申命記8:3の引用だ。昔イスラエルは出エジプトの際に荒れ野で試練を体験した。空腹に苦しんで不平を言い、神からマナが与えられた。

◇子供のないアブラハムが、子孫を星の数ほど与えると言われて、信じて歩み出したイスラエルの歴史だったが、出エジプトの際に、民は神を信じ抜くことができなかった。しかし主イエスは同じ試みに決然と立ち向かい、民が失った神への信頼を取り戻したのである。

◇次にサタンは主イエスを高い所に立たせて、「6:神の子なら、飛び降りたらどうだ」。神が守ってくれるかどうかを試せと言う。すると主は「7:あなたの神である主を試してはならない」と言われた。これも申命記6:16の引用。出エジプトの途上、荒れ野で水がなくて乾き苦しむ民は、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言ってモーセと争い、「主を試した」(出エジプト記17:7)。

◇東日本大震災の時、私たちも神を疑いたくなる衝動に駆られた。しかし私たちが神を疑い、試し、問う前に、神が私たちに「どこにいるのか」(創世記3:9、聖書で人間に発せられた最初の言葉)と問うておられる。神を試すのではなく、神に試されている自分たちを自覚しよう。

◇最後に悪魔は、自分にひれ伏して拝むなら、この世の繁栄をすべて与えるとそそのかした。それは神の存在そのものを疑うという誘惑である。神がいるなら、なぜこんな事態を見逃しておくのか。現実の厳しさに目を奪われ、神は私を見捨てたかと疑い、神は無力なのかと疑う、まさに「最大の誘惑」を克服したい。

◇「あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(ヘブライ書4:15)大祭司なるキリストが共におられるから。

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