礼拝説教


2013/1/27 <降誕節第5主日>

「命がけで愛する」

マタイ福音書5:17~26

牧師 大村  栄


◇「17:わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と主が言われたのは「20:律法学者やファリサイ派の人々」による「律法の形骸化」への強い批判だったのだ。

◇「21:昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている」。殺人を禁じる十戒の第6戒だが、殺しさえしなければ、暴行や脅迫は容認されると言い換えられた。自殺に追い込むほどのいじめや体罰のことを連想する。

◇これに対して主は、「22:しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。殺人の禁止は「命の尊重」であり、それは単なる生物的な命だけでなく、もっと人格的な面での尊重を命じている。人を「ばか」呼ばわりしたり「愚か者」と罵ることは、その戒めの本質にそむく行為なのである。

◇主イエスは律法の精神を「敬神愛人」の二つに集約された(マタイ22:36-40)。聖書の語る教えの中心は、本気で愛するということ。原理原則に則してではなく、もっと柔軟に、自由に、お互いの命を尊重し合う努力を重ねていくことだ。

◇そのように人を愛することは、自分が痛むことだ。相手を痛ませることではない。相手のために徹底して自分を献げる愛。キリストの十字架にその究極がある。独り子を差し出した神の悲壮な決意と痛みに、その愛の源を知る。見返りや「対費用効果」を考えて行うのが愛ではない。

◇先週財務委員会から教会財政に関するきびしい報告を受けた。献金への努力と、節約が必要である。しかし、教会が宣べ伝える「神の愛」は、徹底して捧げる愛であった。その愛を語る伝道においては「対費用効果」など考えるべきではない。徹底的に献げる業としての伝道を実践したい。

◇独り子を賜うほどの徹底した神の愛を、社会と世界に発信する教会に集う私たちは、「命がけで愛する」ということを真剣に考え、本気で取り組んでいきたい。愛なきところではあらゆる戒めが形式化し、やがて人を滅ぼすものとなるという、今日聞いた主イエスの警告を心に刻みたい。

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