礼拝説教


2013/1/13 <降誕節第3主日(成人祝福式礼拝)>

「美しく生きる」

マタイ福音書3:13~17

副牧師 五十嵐成見


◇成人祝福式を伴う礼拝において、新成人も既に成人になっているものも、礼拝において、キリストの御名による「成熟した人間」(エフェソ4:13)を志す同じスタートラインに立っている。

◇福音の旅路のスタートラインに立たれる前に、主イエスは洗礼を洗礼者ヨハネから受けられた。主イエスにとって洗礼を受けることはどうしても必要なことであり「正しい」(「義」と訳せる)ことであられた。主イエス自らが洗礼を受けられることによって「神の義」を示してくださった。私達神の使命に生きる者の規範としてである。ヒッポリュトスという教父の伝承によれば、初代教会時代、受洗者は服を脱ぎ、受洗後、新しい服を与えられる。古き自分を捨て新しい自分に生まれることの象徴である。私たち洗礼を受ける者は全て、この神の義の衣を身にまとっている。

◇結婚式でよく読まれるⅠコリント書の「愛の賛歌」の中では「幼子である」ことを棄てることが求められている(13:11)。愛するとは大人になるということ、大人になるとは愛に責任を持つことである。かつてオバマ大統領が第1期就任演説でⅠコリント13:11を引用し「新しい責任の時代」を強調したが、この聖書的理念は、日本の地に生きるキリスト者も同じ、いやそれ以上である。

◇日本に生きるキリスト者は、闇の中に輝く一筋の光である。神の道筋をまっすぐにするための使命を帯びている。しばしば私達の世界や自己との関わりにおいて挑戦を受けることは、神の道筋をまっすぐに生きることを妨げられることである。利潤追求、既得権益、自己保身のために神の道筋が捻じ曲げられる。私達に求められていることは、神の義における「ならぬことはならぬ」(新島八重が属した会津藩の家訓)を知ることである。

◇主イエスの洗礼の出来事は福音書の中でも最も美しい場面である。洗礼を受けるとはこの「神の美しさ」を身にまとうことでもある。神の義の衣をまとう気品さに、私達は心を新しくさせられていく。どんなに私の心が汚れに満ちる思いに捕えられていたとしても、主イエスの美しい義の衣は、何度でも、私のことを新しくしてくださる。
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