礼拝説教


2012/12/30 <歳末礼拝>

「鳴れかし鐘の音」

マタイ福音書2:13~18

副牧師 加藤真衣子


◇「わたしは初めであり終わりである(ヨハネ黙示録22:13)」と言われるキリストによって、年が暮れてゆく。主イエスはお生まれになってまずエジプトへ行かれた。イスラエルにとって忘れ難い苦しみの場所エジプトに行き、忘れ難い道のりだった荒れ野の旅路を歩み直して下さった。私たちには忘れようにも忘れられない悲しみの過去がある。齢を重ねれば重ねるほど過去が増えて行く。過去をどうやって乗り越えて行くか。聖書は告げる。主は過去にまで来て下さる。私たちの過去をさえも主が歩み直してくださるのだ、と。過去の悲しみ、痛み、受けた傷にさえも手を触れてくださるのがインマヌエルの主なのだ。

◇過去の悲しみが悲しみでなくなるというのではない。悲しみに意味を与えられる。「あの悲しみは主に在ってはこんな意味があった。あの過去があったから今の私がいる」と。インマヌエルからインマヌエルの恵みに包まれて、私たちは生かされている。

◇エレミヤ書の引用(2:18~)のラマという場所はベツレヘムの別名ではないかと言われる。ラケルは聖書では悲しみの人を代表する。今またベツレヘムで自分の子どもを権力によって奪われてしまう母たちの悲劇が起こった。嘆きに嘆き、誰からも慰められることさえも拒む母たち。そんな嘆きの中にこそ御言葉が届く。「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる(招詞)」嘆きが終わりではない。終わりはキリストなのだ。

◇私たちの嘆きの場所にこそ、キリストは生まれたもう。主が嘆きの過去に意味を与え、悲しみ多い私たちの旅路に永遠の同伴者として伴って下さる。この一年、多くの方々を天の国へと送ってきた。けれど教会は弔いの鐘を響かせる所ではなく勝利の鐘をこそ鳴らすのだ。死すべき人間が、主の十字架によって罪赦され、キリストのいのちを生かされる復活の恵みに与っている。恵みを携えて、新しい年をともに行こう。

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